滋賀区

滋賀区ストーリー

首都圏でいいものに触れられる場所、
それが「滋賀区」です。
あなたのそばにある
滋賀区を訪れてみませんか。

歴史もあり、新しくもあり。
首都圏で滋賀を感じよう。

滋賀といえば琵琶湖、という人は少し話を聞いてほしい。滋賀には他にも知られざる名産やいいものがたくさんあるのだから。琵琶湖の小魚料理から、近江牛に近江米、日本酒やワイン、スイーツに至るまで、グルメもうなる美食の宝庫。あの愛くるしい狸は滋賀生まれの信楽焼で、近年はスタイリッシュな信楽焼のブランドも注目を集めている。

滋賀の長い歴史から生まれた文化は、江戸、現在の首都圏にまで広く影響を与えている。例えば、滋賀の名刹と緑の深い神社仏閣がある上野や赤坂、江戸幕府が開かれた後に多くの近江商人が店を構えた日本橋周辺など、首都圏で滋賀のいいものに触れられる場所が各所に点在しているのだ。その場所を「滋賀区」と呼ぼう。あなたのそばにあるかもしれない滋賀区を、ぜひ訪れてみてほしい。

滋賀区の案内板

近江商人と
日本橋の深い関係

江戸時代から経済の中心であった日本橋。
滋賀から多くの近江商人が
商いに訪れ、店を構えた。
彼らが繁栄を築いた根幹となる
精神は、今も生き続けている。

  • ●西川仁右衛門 450年以上の歴史あり元祖・近江商人

    近江国蒲生郡に生まれた初代西川仁右衛門は、1566年に蚊帳、生活用品の商売を始める。近江八幡町に店を構えてから商売を拡大し、1615年には江戸・日本橋に支店を開設した。現在も変わらず、近江を代表する老舗企業である。

  • ●伊藤忠兵衛 繊維卸商から世界的な総合商社へ

    11歳で行商を始めた初代忠兵衛は麻布の持ち下り業で商才を発揮。呉服太物商を開店し、今日の伊藤忠商事の礎を築いた。二代目忠兵衛となった後も日本橋人形町に進出し、海外へも次々と出張所を開設していく。

  • ●飯田新七 世界へ視点を広げた髙島屋の創業者

    初代飯田新七が高島市で始めた、古着と木綿を扱う「髙島屋」。「志を広大にして日本中はおろか世界の人を得意先として商売する心がけが肝要である」という言葉をもとに、二代目以降も積極的な経営を行い、1933年日本橋に髙島屋を開店した。

商売を繁栄に導いた三方よしの精神

滋賀県に本宅・本店を置き、日本各地で商売を行った“近江商人”。彼らは江戸時代から明治時代にかけて活躍し、その地域地域で繁栄を築いた。
江戸幕府が開かれた後に日本橋が架けられたことで、日本橋は東海道の起点となり物資や人々が行き交うように。日本橋は日本経済の中心となり、数多くの近江商人が日本橋に店を構えていったのである。
その背景にあるのは「売り手よし、買い手よし、世間よし」と、自分たちの利益だけでなく皆が幸せになるようにと考える三方よしの精神にあるといわれている。利益を社会的に還元し世間からも喜ばれる行いをしたことで富をなしていったのだ。
近江商人をルーツに持つ企業は業種もさまざまだ。国際的に活躍する企業も多く、なかでも髙島屋西川産業日本旅行丸紅メルクロス柳屋ビルディングなどは今も日本橋エリアで経営を続けている。

井伊、紀尾井、招き猫

大老職もつとめるなど、諸大名の筆頭であった近江国彦根藩主の井伊家。
江戸で彼らが生きた証が今も脈々と受け継がれている。

徳川とともに行きた井伊家の足跡

近江国彦根藩を治めた大名、井伊家。関が原の戦いで活躍した井伊直政、息子の直孝と、徳川の厚い信頼を得て諸大名となった名家だ。江戸に置かれた屋敷の場所は、徳川御三家の紀伊徳川、尾張徳川と並ぶ千代田区の紀尾井町。現在のホテルニューオータニに井伊家中屋敷跡の石碑を見ることができる。
彦根藩主十三代井伊直弼は、安政の大獄で知られる一方で、日米和親条約を結び日本を開国に導いた功績者。彼が暗殺された桜田門外は、千代田区霞が関で紀尾井町からも歩ける距離。散歩で滋賀区めぐりができるコースだ。
もうひとつ、ゆかりの深い場所が世田谷にある。彦根藩が江戸で所領していたのが現在の世田谷区で、二代当主井伊直孝が豪徳寺を菩提寺とした。ちなみにこの寺に招き猫が多数祀られているのには逸話がある。なおたかが寺の前を通りかかったとき、寺の飼い猫が手招きをした。そこで直孝が一休みした途端激しい雷雨に。おかげでずぶぬれにならずに済んだと、なおたかがこの寺を菩提寺としたという。ちなみに彦根市のキャラクターひこにゃんはこの“招き猫”がモデル。“滋賀”と東京の、意外なつながり。

■イラスト:白尾可奈子、浜名信次(SHIGA-KU MAP)